職員朝礼での社長訓話集 一つ戻る 最新版へ戻る
「アルマゲドン」 (6・28)
「聖の青春」 (6・26)
運動会と音楽 (6・24)
食事と音楽 (6・23)
車と音楽 (6・20)
上手に学びなさい (6・17)
続・音楽のストーリー (6・14)
音楽のストーリー (6・12)
攻めの気持 (6・10)
調性の謎 (6・ 8)
聞き慣れ (6・ 6)
続・迷惑電話 (6・ 5)
迷惑電話 (6・ 4)
習い上手 (6・ 3)
教え上手 (6・ 1)
ていうビデオを家で見ました。地球衝突が数日後に迫った小惑星に、勇敢かつ型破りのにわか宇宙飛行士たちが決死の覚悟で爆薬を仕掛けに行き、最後は自分の命と引き換えに全地球を救うという感動的なストーリーです。いつも思いますが、アメリカ映画はセリフのやりとりの随所にユーモアが散りばめられているし、何気ない演技がキラリと光るので面白いです。ただSFとなると、一応理科系の専門職である私の評価は、ぐんと厳しいものにならざるを得ません。地球を破壊するほどの小惑星が、衝突2週間前になってやっと発見されるとか、地下240メートルで核弾頭を炸裂させるだけで、小惑星が真っ二つに割れるとか、あんなトゲトゲの地表に軟着陸もせず、胴体着陸するとか・・・、天文マニアの私の常識とかけはなれたシーン続出で、ちょっと興ざめしてしまいました。小学生の頃に、「地球最後の日」といういかにもありふれた題名の、設定も同じ小惑星ものの映画を見ましたが、日に日に大きくなって、しまいには月よりデカく見える小惑星を人々が見て恐れおののくシーンが印象的でした。そうですよ、衝突寸前の小惑星なんですから、いくら何でも肉眼で見えるでしょ。それに真っ二つに割れた小惑星の破片が地球をかすめていくというのに、世界の人々がいつもと変わらぬうららかな晴天の下で喜び合っているのも、余りに不自然でした。
物語というのは、実際に起こっても不思議ではないような題材の中に、刺激を織りまぜてあるのが面白いです。余りに荒唐無稽では、「そんなバカな」という感覚が先行してしまいます。ルパンV世みたいなアニメなら、それはそれで面白いですが・・・。作曲に関しても同じことを思っています。オリジナル曲というのは、毎日膨大な数が生まれているはずですが、人々から愛され演奏されつづけていく曲は極僅かです。クラシック、ジャズから歌謡曲まで含めた名作に共通しているのは、決して奇をてらわない明快なメロディーを持っていることでしょう。オリジナリティを追求するあまり、変拍子や不協和音を第1テーマにすれば、聞いてるほうは「小惑星に胴体着陸して火災まで起こしたシャトルが、平気で帰って来れました」という話を聞いているようなもので、いいとか悪いとか以前の違和感を持ってしまうのです。
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ていう本、やっと私も読みました。難病と戦いながら、将棋界の鬼才として躍進を続け、惜しくも29歳の若さで夭逝した村山聖八段の伝記です。TBSラジオのCMでしょっちゅう宣伝していたし、将棋に興味ない人々も巻き込む感動のベストセラーですから、将棋ファンの私が読んでいなかったのが不思議なくらいです。先週都心に出たとき、ちょっと時間があったので神田で買い込んで、帰りの電車に乗る頃には半分近くまで読んでいました。これは文句ナシにオススメの本ですよ。
読んで考えさせられました。命ギリギリの生き方って、スゴイですね。村山八段は、物心ついたときから、明日はもう生きていないかもしれないとか、来年の誕生日まで生きていられるかわからない、という状況の中で、将棋の奥深い世界を追及し、名人になることを夢見て、ケタ違いの努力を重ねた人です。今、街に出て回りを見渡したとき、目的が見つからずに有り余る時間を持て余している若者だらけです。別にどう生きようと、その人の勝手は勝手ですが、平均寿命が延びて何でも手に入る豊かな時代で、健康体でいる人々が忘れてしまった大切なものを、この本は教えてくれるような気がします。
私自身は普通の39歳のオジサンに比べたら、まあまあ夢を追っている方だし、密度の濃い生き方をしてるかなっていう自負はありますが、追いかける真剣さでは村山八段の万分の一にも及びません。そんな凡人の私が、逆にこの本から自信を得た部分もあります。残り僅かな命を賭けるような真剣さで臨めば、人間はかなりすごいことまで実現してしまうものなのだということです。以前、ベーシストのT君が、ぽつんとつぶやいたことがありました。「オレ、すごいことに気づいたよ。練習すれば上手くなるってことさ。トッププロになれるかどうかは、その練習をどこまで徹底的にやれるかの差だけだ」・・・。若者の中でも、特に夢を持っている人は、安易に諦めないで欲しいですね。無責任を承知のアドバイスですが、やがて30代になった頃の生活の安定とかを心配するなら、私なんかのように夢は趣味の中で適度に追いながら堅実な人生設計をするべきだし、トコトン追いたい夢ならば人生を投げ出す覚悟で頑張るしかないです。長いか短いかの差だけで、基本的には村山八段の人生もその他大勢の人生も、1回限りの自分の人生という点では同じなんですよね。
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BGMについての考察を続けておりますが、日本中どこへ行っても必ず使われている、BGMの定番みたいなのってありますよね。例えばパチンコ屋の「軍艦マーチ」とか運動会の「天国と地獄」など。誰が最初に使い始めたのでしょうか。法律に基づいて指導されているわけでもないだろうと思うのですが、これだけ定着したからには理由があるはずです。変革を試みるには、まずそのへんの分析から始めなければなりません。「軍艦マーチ」の替わりに「トゥルース」を流しているパチンコ屋さんは、売上の方はどうなんでしょう。興味があります。
13年前、三沢中学校で放送委員会の顧問になった私は、意欲溢れる委員生徒たちと協力して、BGMリニューアルを目論見ました。下校の音楽をドボルザーク「新世界2楽章」から、マーラーの「交響曲第5番4楽章」に変えたのがなかなか評判良くて、いい気になって運動会のBGMも一新することにしたのです。かけっこのBGMに何を使うかなんて、職員会議に出すような問題でもないので、僕らの意のままにいろんな曲が登場しました。実際にやってみると、運動会は何だか違和感の多いものになりました。特に短距離走やリレーの雰囲気が、どうも何か間が抜けたような感じがするのです。原因はすぐにピンと来ました。曲のテンポです。後で勉強したことですが、テンポの速い曲を聞くと人間は心理的にせかされるので、結婚式や宴会のお開きの時に軽快なテンポの曲を流すのは、さっさと客を追い出す効果を狙うためなのだそうです。だから短距離走のBGMは絶対に遅い曲であってはならないわけで、あの年の運動会はたぶん好記録がでなかったでしょう。かわいそうなことをしました。終わった後、いろんな先生からボロクソ言われましたが、これでへこたれるような私ではありません。次の年はリベンジマッチでした。100M走のBGMに使ったのは、リッチーコールの東京マッドネスから「チェロキー」、アートブレイキーのライブ版「チュニジアの夜」他、これでもかとばかりに超アップテンポのジャズを並べてやりました。なかなか良かったですよ。皆さんの学校でも使ってみません?
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レストランなどで、のべつ幕なしに音楽がかかりまくっているのは、日本の特色だという話を聞いたことがあります。他の国では、食事中は会話を楽しむのがメインだという考え方なのでしょう。日本でも全部が全部そうとは限りませんが、某ファミレスでは、明らかに会話が成立しにくい程のボリュームでスッチャカスッチャカ流れていました。その時は、たまたま結婚式の司会者として、婚約中のお二人と大切なお話をする場であったので、やむを得ず別の店に移動せざるをえなくなりました。他のお客さんはどう思っているのでしょう。この音楽を聴くために、この店に来ている人ばかりではないでしょう。話題が途切れたとき、音楽が上手く間つなぎをしてくれるのでしょうか。それとも、この音楽に負けないボリュームで会話を続ける自信があるのでしょうか。(オバサンと女子高生以外には無理?)
以前ニューサウンドで、米軍基地内の将校クラブで演奏という話が持ち上がった時に、むこうのマネージャーさんは、「とにかく音量が大き過ぎるのだけは困る」ということを、再三にわたり繰り返していらっしゃいました。うちはビッグバンドですから、小さい音量というものはそもそも無理なので、この話は流れましたが・・・。会話を楽しみながらゆっくり食事してもらおうというお店では、やはりデカすぎるBGMは禁物に決まっているのです。
ところで、ファミレスで店長を務めた経験のある友人から、面白いことを聞きました。そのファミレスは、夏期の冷房をガンガン利かせるので有名です。20度以下まで下げているのではないでしょうか。とにかく寒いです。彼は「快適な温度にすると、客が長居する。かと言って冷房を弱めたりすれば文句が殺到する。利きすぎにしておくと、うまい具合に文句も出ず、さっさと出て行ってくれる」と言うのです。なるほどそう考えれば、うるさめのBGMの理由も理解できます。あれは客の回転を良くするための作戦なんですね。違うかしら・・・?
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車の運転中にラジオや音楽を流すのは、聴覚の注意力が分散されるので、よくないこととされているようです。正直な所、私は常に何か流しながら運転しますが、それが原因でヒヤっとした経験は未だにありません。携帯電話は確かに危険でしょうが、くわえタバコの運転なんて、そんなのとはケタ違いに危険なように思いますがねえ・・・。
車でかける音楽の「標準装備」といえば、サザン、ユーミンです。ナンパした女の子がどんな志向かわからなくても、この2つが流れていれば、まあ間違いないでしょうし、逆に男性の側も、普通の感覚を持っていると見なされますので、無難な線です。いやはや男女とも流行に弱い人が多くて困りもんですねえ。自分の車には演歌しか置かないって人とか、もっと増えてもいいと思うんですが・・・。
さて私自身ですが、家ではジャズやクラシックを聴きますが、運転中となるとやや志向が変わります。サザンユーミンは常備してないのですが、どちらかというとそれに近い感じの、若者系が多くなります。最近、自分なりのその理由を考えてみました。クラシックの大曲なんかだと、つい曲にのめりこんで、本当に注意力散漫になる危険があります。室内楽風のは、気分良くなって眠気を誘います。ところが今風のスッチャカスッチャカしたやつは、興奮状態を維持しながら、曲全体が同じトーンで淡々と進行するので、集中せずにただ流れてるだけの状態を作り出すことができます。現在私の車には10枚のCDがセットしてありますが、ノンストップ・ユーロービートとか、ラップとか、普段の私の音楽志向からは考えられないものが入っています。また、この手の一定リズムの曲は、車窓を流れ去る風景の中の、対向車とか電信柱とかセンターラインなんかの周期性と、微妙にマッチするのかもしれません。
こんなことをあれこれ考えて、安全性についてあーだこーだ言うくらいなら、音楽かけずに運転するのが一番かもしれないなあ、と今思いました。皆さんの車には、常備音楽ありますか?
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今日は青梅東の部員を引き連れて、前任の顧問の先生へご挨拶も兼ねて、都立S高校のブラバン見学会でした。音楽室が使えない日ということで、セクション毎に分かれての練習でしたが、すべてを生徒の手で仕切るという伝統は健在。うちの部員たちには、とても良い勉強になったようです。しかしS高校の皆さんには、見学者が来るということで緊張感が走った点を除けば、プラスになったことは無かったでしょう。勉強するチャンスをみすみす逃してしまうこういう体質も、残念ながら昔と同じでした。
私は主に金管のセクション練習を見ていたのですが、デビューしたての2年生指揮者は、非常に意欲的で振り方もサマになっており、すでにメンバーの信頼という最大の武器を得ていました。指揮者としての資質に恵まれているといってよい、今後が楽しみな逸材です。しかし基礎合奏の中身はというと、責めるのは可哀想ではありますが、練習のねらいというものを理解しないでやっている、行き当たりバッタリのものでした。指揮者デビューしていきなり基礎合奏を任されたら、誰でもこうならざるを得ないのは当然ですが、だからといって指揮者になった以上、いつまでもそれが続くことは許されません。責任ある立場についたら、練習の進め方を必死に学んでいかなければならないのです。じゃあ誰に教わればいいのかというと、少しでも自分より経験の豊かな人から、盗み出せばよいのです。先生が練習に顔を見せた時はちょっと振らせちゃうとか、それが不愉快ならば、ご意見を伺うだけでもよいでしょう。今日みたいに他校の先生が見に来たなんて日は、さらに大きなチャンスになります。
結局今日は、意見を聞かれたらたっぷり言ってあげようと思っていましたが、聞かれませんでしたし、最後のミーティングで「何かお話しされますか?」というので「もし、何かお話しした方がよければ・・・」と答えたら、「いえ、別に」って具合・・・。私の鋭い指摘を受けることはありませんでした。何だかS高校の悪口を言ってるみたいで、しかも自分の自惚れをさらけ出してるようで心苦しい面もありますが、真意は別のところにあります。生徒が自主的に活動し、安易に先生の手を借りまいと考えるのは素晴らしいことです。ただ、それにこだわり過ぎて、「過去の先輩たちは絶対に先生の手を借りなかった。自分の代で借りてなるものか!」みたいに頑なになってしまう必要など全くないのです。自分たちでいくら頭をひねっても、もともと何も無い所から何も発生しません。いろんな先生に練習を見てもらって、その中から自分たちの納得のいく内容を取捨選択してみたらいかがでしょう。こんなところに書くくらいなら、でしゃばって言い終えてくりゃ良かったのにねぇ。反省・・・。
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10年くらい前、ベーシストの麿さんから、ジャズのアドリブの極意を伺いました。上手いヘタの差や、ご機嫌なフレーズの有無を別にして、良いアドリブを作るコツは、山場を設けることにあるというのです。これは最高に有用なアドバイスでありました。アドリブ・ソロと一口に言っても、長さはいろいろです。大編成の曲の中で回ってくるソロは、ほんの数小節から、長くて2コーラスくらいですが、コンボ編成だと、延々何コーラスも繰り返します。どんな長さのソロでも、その中にクライマックスを作ることが大切だということなのです。いろいろな録音を聴いてみると、確かにそういうアドリブをする人が多いですね。私は、アドリブもどきのフレーズを書いてあげるという仕事を数多くやってますが、書く上でストーリー性を最も重要視するようになりました。その仕事の実際をお話しましょう。
4小節くらいの非常に短いソロの場合、全部を山場にしてしまい、「吹きまくる」という雰囲気に仕上げますが、8小節から16小節くらいになると、全部をガンガン行くわけにはいきません。1本調子になり、インパクトがなくなります。いつも怒ってばかりいる先生が、だんだん恐れられなくなるのと同じです。クライマックスの設定方法は主に2通りあって、第1は起承転結型。おだやかに導入して、だんだん盛り上げ、第4コーナーのあたりでグオォ!って行くパターンです。もう1つがサンドイッチ型で、ガーンと入って途中ちょっと流して最後をまた盛り上げるというやつ。曲の雰囲気によって使い分けます。これも自信作というのがいくつかあって、ニューサウンドのピアニストのために書いた、チックコリアの「スペイン」という曲の2コーラス分のソロが、自分としては代表作ですね。これを作った時は、シーケンサーの伴奏で、自分で約20コーラス繰り返して弾き、その録音を素材にしました。私くらいのへっぽこピアニストでも、20回も弾くうちには使えそうなフレーズが偶然発生することもあるので、それを拾っていきます。そしてそれらを2コーラス分の起承転結に割り振っていくのです。
こういう作業を意識的にやっていくうちに、本当のアドリブを弾くときにも、とりあえずストーリー性だけはあるようなものが弾けるようになるものです。曲全体の分析をする指揮者の皆さんも、アドリブの分析をするプレイヤーの皆さんも、音やハーモニーだけに目を奪われずに、ストーリーという観点で全体像を把握するようにしてみると、また一味違った曲作りができるでしょう。
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オペラなどのように、登場人物やセリフが決まっていれば、演じる側も観る側も共通のストーリーを感じながら進行します。歌には歌詞が存在するので、これもほぼ同様です。しかし、そういうものが無い「器楽曲」についても、物語性はあるわけで、そういうものを意識して曲作りがなされないと、退屈極まりないものになるでしょう。演奏者が最低限意識していなければならないことは、クライマックスがどこなのか、ということでしょう。短い曲なら1箇所。長い曲では前半の山場、中盤の山場、そして最後は曲全体のクライマックス、という具合に少し入り組んだ構成になり、そこに向かって伏線を張るわけですね。大合奏の場合は、こういうことは主に指揮者の仕事になりますが、独奏ならば当然自分で考えるし、アンサンブルならみんなでワイワイガヤガヤ話し合って解釈を決めてゆきますから、結局、演奏という行為を行う以上、誰もが演奏の中にストーリーを見出す必要があります。
お客さんにハラハラドキドキワクワクの物語を伝えるには、演奏者自身がより詳しいストーリーを感じている必要があるでしょう。ところが、作曲者というのは、書いてるときはある物語を想定して書いてるに決まっていると思うのですが、その筋書きをクドクド説明することは殆どありません。手がかりは題名だけですが、これも案外テキトーに付けられていることが多く、作曲者の意図を読み取ろうと懸命になっても、偶然作曲者本人と会った時に「ああ、あれ意味無いよ」なんて言われて「オイ!コラ!」と思うことが多々あるものです。私は、指揮をするときは、仕方ないので自分で登場人物のキャラクターを考え、一つの物語をねつ造し、演奏者に話すことにしています。過去の名作といえば、やはりブラバンのコンクールで振った曲が、スコアの研究も気合が入るので、完成度の高い物語になります。自作の物語を話しながら練習を進めると、時には10分、20分と私の講釈が続くこともありますが、私の物語を聞くことを楽しみにしてくれていた生徒も少なからずいたので、「早く吹かせろ!」と暴動になったことはありません。ある年のコンクールで、審査員評に「たいへん面白い物語を聞かせてもらった」というのがあって、してやったり!という気分でした。聴衆にはまったく別の物語が伝わってしまっているに決まっているのですが、ドキドキ感さえ伝われば大成功なのだと思います。
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将棋で受けた「無理に攻めずにじっくり行け」という教えが、よほど身に沁みたのか、囲碁では余計な争いをせず、自分の地をしっかり確保するような打ち方を心がけていたら、今度はクムクム師匠に怒られました。相手の石を攻めに行かなければ意味がない・・・と。どっちが本当なのよ!と思ってしまいますが、答えは両方なのです。足元はしっかり固めて、行くべきところは行く・・・。達人はそれを教えようとしているのです。
合奏でも、安全運転を心がける余り、攻めの気持が足りない演奏をよく見受けます。安全に済まそうという意図が見え隠れする演奏は、無難に終えることができても、聴く人にとっては何の印象も残らないつまらないものになります。みんなにほどほどに受けることよりは、半分を敵に回して半分を熱烈な支持者にするような、イチかバチかみたいな演奏の方が、面白いと思うのです。・・・と自分では解っちゃいても、大勢のお客さんを前にしていざやるとなると、「そうそうバカなことはできないぞ」という気持がどこかにあって、安全第一に流れてしまいがちです。そこをどうふんぎりを付けて開き直れるかが、演奏の分かれ道になるはずです。
昨日、ギタートリオのライブを見に行って、ちょっとした成り行きで、私が飛び入りピアニストになってしまいました。コンボのピアノなんて、久しく弾いてないですが、せっかく一緒にやろうと誘っていただいてるのに、頑なに断るのも悪いですから、がんばってみました。出来がどうだったのかは解りません。その時のお客さんに訊いていただくしかないでしょう。たぶんヘタだったに決まってますが、私自身としては、悔いのないプレイをしたと思っています。ヘタなのはどうしようもないので、とにかく守りに入るようなプレイだけはするまい、という心がけで臨みました。(完全な自己満足) 安全第一は車の運転に限ることにして、その他のことは常に攻めの気持で行きましょう。
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ブラバンの曲に、やたらとB♭durとかE♭durが多いのは、過半数の楽器がB♭管だから、指使いを楽にするためということだと思われます。トロンボーンやユーフォ、チューバだって、譜面はCで書かれていますが、開放がB♭ですから紛れも無くB♭管です。オーケストラの曲になると事情は一変し、ブラバンでは滅多にお目にかかれないDdurやAdurなどが頻繁に登場します。バイオリンの開放弦にDやAがあるからでしょう。B♭管でこれに付き合わされるのは、たとえプロでも「やなこった」ですから、オケではA管のクラやC管のトランペットを使うことが多くなります。作曲者が決める曲の調性というのは、歌手の音域なんかも含めて、このような演奏者サイドの都合で決められている感じを受けます。ですがそうすると、ちょっと首をかしげたくなるような事例に遭遇します。
ショパンの「ノクターン」はE♭durですが、「別れの曲」はEdurですよね。ショパンはすべての調で弾き比べて、最も運指が楽な調を選んだのでは無さそうです。それは私自身「別れの曲」で地獄のような苦労を味わった体験からも断言できます。ピアノの音域的な問題とも思えません。4度とか5度違うならそうとも考えられますが、この2曲はたった半音の違いです。ジャズの世界にも「やめてくれぇぇぇ」と言いたい調を持った曲が存在します。ワン・オクロック・ジャンプはD♭majorのブルースで、不勉強をさらけだしますが、この曲をやらないですむならば、私はD♭のスケールは練習しなかったでしょう。これはまだマシな方で、「テイク・ファイブ」はE♭minor、「クレオパトラの夢」に至ってはA♭minorで、実に♭7つという、イジメとしか思えないキーです。バド・パウエルは何故半音ずらしてAminorにしなかったのでしょう。名曲になるという確信を持った上で、後世のジャズメンたちが難しいスケールをちゃんと練習するようにという、親心を働かせてくれたのでしょうかねえ。(そうでも思わなければやってられまへんわ)
楽理とかに疎い私が、恥を承知で自分の説をお話ししますと・・・。ピアノを練習するとき、誰でも最初はやっぱりハ長調ばっかり弾きます。平均率12音階のピアノという楽器を手に入れた人類に、ハ長調に対する聞き慣れが後天的に備わり、臨時記号が増えてハ長調から遠ざかるほど、人間の耳は違和感というか緊張を感じるようになったのではないでしょうか。交響曲でいうと、ベートーベンの1番とか、シューベルトの9番とか、モーツアルトの41番などは、人々を安心させるサウンドを意図してハ長調。「クレオパトラスの夢」などは、滅多に無いキーで意外性を狙ったのではないかと想像します。吹奏楽界のヤン・ファン・デル・ローストは、D♭が大好きな、とても迷惑(?)な作曲家ですが、響きがとても斬新でハマります。皆さん、がんばって♭5個のスケール練習しましょう!
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一目惚れというのがありますが、初めて聴いたその瞬間に「これこそ私が求めていた音楽だぁぁぁ・・・」なんて思うことがあります。逆に初対面で何とも思わなかった人でも、ずうっとその人と一緒にいなければならない環境に置かれると、「情が移る」みたいな現象で、次第に好感を持ったりすることがあり、繰り返し聴き返すことで、好きになっちゃう音楽もあります。
10代の頃の私は、根っからの「スッチャカスッチャカ音楽派」で、ビートを刻まないクラシックなんて、まったく興味がありませんでした。和音に関しても、セブンスにさらにナインスやシャープイレブンみたいな音が入ってないと刺激が少なすぎて、ドミソ、ドファラばっかりの古典派クラシックなんて、甘口カレーを食べてるようなもんで、とてもじゃないけどそれが1時間近くも続く交響曲なんて耐えられないと思っていたのです。極めつけはベートーベンの「田園」第1楽章。あの出だしの2小節くらいを聞いただけで、「あ、こりゃだめだ」という感じになって、その先なんか聞いたことなかったのです。ところが、ヒョンなことから、この「田園」の頭から、かなり先までの部分を何十回と聴かされるハメになって、私はクラシックというものに目覚めたのでした。
それは約20年前、日野市民吹奏楽団と「劇団ひの」との夢の共演でのことでした。「セロ弾きのゴーシュ」の楽団員役で、私たちは実際に楽器を持って舞台に乗ったのですが、当然のことながら、何回かの練習とリハーサル、そしてその年のゴールデンウイーク4日間連続公演のすべてに同行しました。そして、ゴーシュが練習で指揮者からシボられるシーンの曲が、「田園」だったのです。とにかくオーケストラの練習風景を演じているわけなので、台本通りにすんなり通しても、何回かのやり直しシーンがあり、5〜6回は田園を聴きます。それのさらにリハーサルとか練習になると、あちこちNGで止めたりするので、さらにその数倍の田園が聴けることになります。それにまた掛け算すること日数分! 曲はもう完全に覚えてしまい、「田園」が毛細血管の隅ずみまで行き渡った頃、私はその響きや展開に何ともいえぬ心地よさを感じ始めていたのです。今も、家の中で否応ナシに毎日聞かされている種類の音楽があるのですが、またもや洗脳されるでしょうか。(次回に続く)
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おっと、連続更新してしまいました。また今日も某大学附属高校の生徒さんから、いきなり「譜面を探しているんですが」という電話が入ったもんで、私も少々エキサイト気味でございます。今日は迷惑電話の、極めつけをご紹介しましょう。
某私立高校の吹奏楽部から、先週受けたものです。当然のことながら、「お忙しいところ・・・」の下りは一切ございません。「定期演奏会の案内を送らせていただいたのですが、ご覧になりましたでしょうか?」「はいはい。いただきましたが」「その中に、入場整理券の申し込み用紙を同封させていただいたのですが、期限を過ぎてますので、至急ご返送下さい」「は、はあ・・・」 何か催促をされているような感じだったので、私はこの高校にどんな借りがあったっけ?と一瞬とまどったため、怒るタイミングを失ってしまいました。うちの生徒たちがこの高校の演奏会に何が何でも行きたくて、入場券を確保してもらうようにお願いしていたとかいうのなら話は別ですが、そういう関係は存在しません。だとしたら、お客さんを呼ぶ側というのは、「一人でもご来場いただければ幸いです」という立場です。この電話に対して「誰がお前んとこの演奏会に行くっつった!」とか言ったらどう答えたのでしょうかねえ?
一つ不思議に思うのは、他の学校の方々はこういうの平気なんでしょうか? 私みたいにクラブにかかってきた電話を直接受ける顧問は珍しくて、生徒同士で交渉する普通の学校では「お互い様」と許しあっているのでしょうか。生徒相手にかけるにしたって、受ける側は練習を中断させられて、たいていは最上階の音楽室から、たいていは1Fの事務室まで全力疾走するわけでしょう? マナーとか思いやりってものがあったら、電話ではなく往復ハガキにするのが当然だと思うのです。緊急を要する場合は確かにありますが、少なくとも物を頼む立場にある時は、それなりの礼儀を尽くしてほしいし、本来は顧問の先生が電話すべきでしょう。
思えば自分にも責任が無いわけではありません。こんなところでボヤいてるだけだから、迷惑電話はいっこうに減らないんですね。一人の大人として、若者を指導する機会でもあります。今度からは怒鳴りつけますよ!全国のブラバン生徒諸君、青梅東に電話するときは気をつけなさい。ほーっほっほっほっ・・・。
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自宅にかかってくるイタズラ電話とかのことではありません。2〜3日前のことですが、私は校内放送で呼ばれました。「直井先生、お電話です」ってやつです。だいたい転勤してきたばかりの者に外線でかかってくることは珍しく、たいていは前任校から引継ぎ不十分だった問題についての問い合わせだったりするので、大切な用件だろうなあと、事務室へ息を切らせて駆け込んで受話器を取ってみると・・・。「○○高校吹奏楽部の者です。楽器をお借りしたいのですが、バスクラとファゴットとオーボエとコントラバス・・・」なんて具合に一気にまくしたてられます。この手の電話は実はよくあるので、解っているけど一応こんなふうに尋ねます。「それらの楽器をうちの学校の誰かがお貸しするとお約束したのでしょうか?私は何も聞いていないのですが・・・」 すると「い、いえ。もしそちらの学校にあるようでしたら、お借りしたいと・・・」 「そうですか。ちょっと今はお貸しできる楽器はありません」 「はあ、では失礼します」 というやり取りになります。お解りいただけるでしょうか。○○高校は、どこの学校に何の楽器があって、そのうち何が余ってるかという事情は一切知らず、手当たり次第に電話をかけまくっているわけです。何十校も電話するのは大変でしょうが、1校でも2校でも貸してくれる所が見つかればバンバンザイですから、生徒たちが手分けして電話をかけているのでしょう。
しかし! ハッキリ言って、これほど迷惑で失礼な電話もありません。かけてくるのは100%生徒ですが、顧問の先生はこういう行動を、知ってて放置しているのでしょうか。顧問が命じてやらせてるなんつったら、完全に良識を疑いますよ。電話をかけるということ自体がすでに、相手の仕事の手を止めさせる失礼な行動です。それを、貸してくれと頼む側から、傍若無人にローラー作戦を展開し、何の指導も受けてないと思われる生徒が「お忙しいところ誠に恐縮です」の一言もつけられず、いきなり用件を切り出してくるとは、常識ハズレもいいとこだと思うのですが・・・。
こういう電話をしてくる学校に共通しているのは、生徒がしっかりしていて、ほとんど生徒の手だけで活動を運営し、顧問の先生の存在感が薄いことです。そういう学校の先生方は、「自主性に富んだ良い生徒たちじゃわい」なんて喜んでいるウラで、飛んでもない恥をさらしているかもしれないので、放任主義を少し反省して、生徒の行動をある程度チェックした方がいいと思いますよ。それから、こういう電話作戦を実際にやってる生徒さん方は、最低限の電話のマナーというものを、社会人経験の豊富な大人にちゃんと教わっておきなさい!
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楽器を練習するのに、毎週教室に通ってレッスンを受けることは不要!というのが私の持論です。物事を会得する道は自学自習が大原則であり、そのヒントをいただく程度の最小限の補助手段として、たま〜にレッスンを受けるくらいがちょうどいいです。だいたい毎週なんてレッスンがあったら、宿題をこなすだけで精一杯になってしまうでしょう。宿題を出されるということじたいが、すでに本末転倒で、自分の好きなことなのですから、課題だって自分で見つけるというより自分の内側から次々と湧き上がってくる、というのが本来の姿だと思うのですが・・・。だから日々レッスン漬けの音楽大学なんて、信じられない世界です。これについては、他の項でも力説しております。
大学2年生に上がったばかりの時だったと思いますが、物理学科のたいへんユニークなH教授の講義でのことです。あることで私たち学生はお説教を食らってしまいました。あることとは、ナンと「授業に出席した」ことです。先生曰く「君たちはなんでここにいるんだ!勉強というのは自分でやるものだ。本当に優秀な学生は、こうしている間にも図書館かどこかで、本を読みながらどんどん先を進んでいる。」 あえて自分の講義をサボれというのは極端な言い方ですが、真意は伝わっていました。H先生は、私たち共通一次世代の受身姿勢を強く批判されたのでした。
ただ、同じ学生時代、スキー教室の初日に体育の教授はこんなことを言いました。「スキーというのは、まる1年自己流で練習するよりも、まる1年かけて良い先生を探す方が早く上達する・・・」 スキーだけが特殊なのでしょうか? それともスポーツ全体がそういうものなのでしょうか? この言葉を思い出すたびに、よくわからなくなります。
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フルートの第一人者、ランパル氏が亡くなりました。一つの時代が終わったという感じです。さて、世界中のフルートの名手たちが、彼に師事していたわけですが、彼ほど教え方の下手な人も珍しいという話です。「君、どうしてできないんだ?」という問いが繰り返されるだけだったとか。「天才は1%の才能と99%の努力だ」というのは、教育的な配慮から天才というものを美化し過ぎた言葉ではないでしょうか。実際には、天才たちは他人の苦労が理解できないくらい、すいすいと上達してきたと私は思うのですが。
天才とまでは行かなくとも、実戦でバリバリ活躍することと、後進の指導にあたることというのは、相容れないように思えてなりません。ゴルフには、トーナメントプロとレッスンプロという区分があるらしいですが、他の世界も同様の分類が可能なような気がします。以前に「教職員将棋大会」に参加したとき、ゲストとしてプロ棋士が招かれていて、私たちと対局してくれる企画がありました。やってきたプロは、将棋会でも教え上手として名高い○○七段。将棋の普及活動に特に貢献度の高い方で、人気もあります。しかし、彼のタイトル戦等での戦績はまったくパッとせず、お世辞にも強豪とは言えません。イヤミな言い方ですが、彼は第一線での活動に見切りをつけ、「教える」ということに第二の人生を見出さざるを得なかったのではないでしょうか。
大学の教授は教え方がヘタだと言われますが、中には教え上手で解りやすい講義をやる先生もいます。しかしそういう先生は、研究の方ではパッとしない・・・というのは偏見でしょうか。第一線の研究で忙しい人は、授業のプランなんか練っているヒマは無いはずです。講義では学生が理解しようがしまいが、目を爛々と輝かせて自分が携わっている最先端の用語を連発する、その迫力がヤル気のある学生の向学心に火をつける・・・それが大学というものですよ。ダメ学生に媚びるために、わかりやすい授業をやれなんてのは、大学の自爆行為でしょう。教え上手の教授ばっかりになったら、その大学の研究はオシマイだと思うのです。教え上手を目指すのは、第一線からはほど遠い、私のようなチンピラ理科教師兼ブラバン顧問だけで十分です。最先端でがんばっている方々は、どうか教え方の研究なんかしないで、バリバリ活躍してほしいものです。
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