今日の一言(2000年10月分)

  職員朝礼での社長訓話集    一つ戻る  最新版へ戻る   

音楽と自由      (10・30)
続々・音楽と数学  (10・28)
続・ナンバープレート(10・23)

ナンバープレート  (10・21)
続・シーケンサー  (10・18)
シーケンサー    (10・16)
続・音楽と数学   (10・13)
音楽と数学     (10・10)
共に楽しむ     (10・ 4)

10月30日  音楽と自由

 哲学的なタイトルです。音楽がより自由な方向に進化しているというより、人間の営みすべてが自由を目的としていると言った方が良いでしょう。狩猟生活では、一日の大半を狩りに費やすわけですから、それこそ獲って食うという繰り返し以外に何もするヒマは無かったでしょう。今や日本人は洗濯物を脱水槽に移す手間も省いて、多くの自由時間を手に入れています。人間が勉強する目的は、技術面、精神面のいずれにおいても、より大きな自由を手に入れたいがためではないでしょうか。
 私たちが音楽活動をするときに、つまらないと感じる場合は、「自由に向かう」という原則を忘れてしまっているときです。自由に音楽するというのは、指揮者の指示を無視して勝手に吹いて良いなどという無政府状態を指すのではありません。合奏には最低限のルールやマナーがあり、ある意味では最も高度な規律によって成り立っている世界です。しかし表現方法に関しては無限の可能性があるわけで、お客さんがどう感じるかを度外視すれば、すべてOKなのです。これはこう演奏しなければならない・・・などという規則は存在せず、「変だぞ」と思われることはあっても罰せられることはありません。ですから、数人の仲間でアンサンブルの練習をするときは、「ここはこうしたら」とか「ああしたら」とか、ワイワイガヤガヤ自分の頭で考えたことを言い合えばいいわけで、それが楽しいのです。ところが、吹奏楽コンクールの季節になると、「この課題曲はこう演奏しなければばらない」みたいなガイドが示されて、御親切に指揮の振り方の模範ビデオまで出回り、それは有り難いことには違いありませんが、そういうガイドがいつの間にか一人歩きして、立派な規則に成り上がってしまうのです。
そういう中にドップリ漬かった人は、「ここをクレッシェンドしても面白いんじゃない?」みたいな会話を受け付けなくなってしまって、「早く正解を教えて下さい」なんて逆にこっちが怒られたりすることもあります。バイエルから習い始めた子供の多くがピアノ嫌いになってしまう原因も、ここいらにあるような気がしてなりません。私もそうでしたから・・・。
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10月28日  続々・音楽と数学

 再び音楽の話題へ・・・。右脳と左脳の話から、音楽と数学の類似点に話が進んだわけですが、これらは本当によく似ています。ある数学者の言葉を借りると、数学の発達の方向は「より自由に」向かっているそうです。どういうことかというと、自然数しか知られていなかった時代は、1と2の間に数は存在しなかったはずですが、有理数や実数、複素数を知ったとき、人間はより広い世界に踏み出すことができたのです。ドレミファソラシドだけで演奏できる曲は少ないですが、ファとソの間にファ#があると、演奏可能な曲が一気に増え、ソからスタートする音階も可能になる、すなわち自由度が増すというのと何だか似ています。ただ、音楽の歴史的に見ると実は逆で、バッハ以前はもっとたくさんの音が使われていたのが、平均率の12音にまとめられたといういきさつがありますから、ちょっと違いますが、でも大きな流れで見ると、音楽は確かに自由な方向を目指しているようです。ドビュッシー、ストビンスキー、バルトークらの流れは、調性という縛りを解き、ジャズでもマイルスデイビスらが、ビバップのコード進行とスケールという縛りを解きました。今後、音楽がどう進化するかを予想するのは、西暦3000年の人間がどんな姿をしているか予想するのと同様で、難しいことではありますが、私のSF的想像力を使った勝手な予想によりますと、ファとファ#の間の音(4半音)や、さらにその半分の8半音などを自在に出せる楽器が開発されていて、コードネームの中に恐ろしい分数やルート3みたいな無理数が混じってたりして、人間の耳の方もそういう響きを心地よく感じるようになってるか、或いは太古の昔に遡ったような数種類の打楽器だけの単純なリズムの曲で、極めて高度な表現を伝達するようになっているのかでしょう。現代数学の最先端の一番難しいと言われている分野の本をパラパラめくってみると、思ったほど複雑怪奇な数式の羅列ではなく、むしろ数学の本とは思えないような景色をしています。だから簡単なわけではなく、大学で多少数学を履修した私でも、一行どころか一言も意味が理解できません。でも勉強してみたい世界ですね。そこにはきっと音楽と同じ面白さがあるに決まっていますから・・・。
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10月23日  続・ナンバープレート

 前回解説したように、地名の次が530や330ならば、それは希望して選んだナンバーであることが一目瞭然なわけですが、私はそういうナンバーを見かけるとつい、その番号の由来を考えるのです。多いのは、千の位が無い3ケタ番号の、下2ケタが31以下のもので、これはほぼ間違いなく乗ってる人かその家族の誕生日でしょう。誕生日をナンバーにつけたい気持は十分理解できますが、私自身はこのことについて疑問を感じています。常時誕生日を公表していることにより、プレゼントの数が増えるかもしれない期待と、車上アラシに遭ってキャッシュカードを盗られた際に暗証番号を当てられる危険度を比べたら、どうもメリットの方が少ないような気がするのです。1とか777とか抽選になるような別格モノを除いて、他に多く見かける番号というと、1122、1188、2525などで、これらは「いい夫婦」「いいパパ」「ニコニコ」の語呂合わせと考えられます。ただし1122は11月22日生まれの人も含まれるでしょう。ある番号がどのくらい存在するかは、分類番号やひらがな部分の進み具合で判断できます。自家用車ではさ行から、ら行まで順番に割り当てられ、一回りすると530が531になるので、もしも「八王子531・・・」というナンバーを見かけたら、その番号は多摩西部だけですでに数十台存在することがわかります。1107という番号は、かなり多く出回っているのですが、11月7日生まれだけが突出して多いとは考えられません。しかし、これは「いいオンナ」と読めることにふと気が付き、ナゾが解けました。先日すれ違った1107は、やはり女性が運転していましたが、いい女ではなかったので、多分11月7日生まれの人でしょう。3298というナンバーのミニクーパーが数多く走っているのは、まるで申し合わせたかのようです。こういう語呂合わせとは全く関係なさそうな番号は、たいてい電話番号でしょう。会社の車のナンバーを、全部同じ(会社の電話番号)に統一している例も見られます。こんな観察をしながら道を歩く私は、単なるヒマ人かしら・・・。
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10月21日  ナンバープレート

 ついについに、10ヶ月目にして音楽の話題からそれます! 私は音楽のことしか頭にないように思われがちですが、実はけっこういろんなことが気になって、頭から離れなくなるタチです。車のナンバープレートもその一つで、幼少の頃からなぜか私の目をひきつけるものでした。私が今乗っているステップワゴンのナンバープレートには、一番上の段に「八王子530」と表示してあります。車をお持ちの方でしたら大抵ご存知ですが、八王子はもちろん地名で、次の数字は車種に関する分類番号です。多摩地区には多摩ナンバーと八王子ナンバーの2種類があり、もともとは全部多摩ナンバーだったのが、15年くらい前に西の方だけ分家して八王子ナンバーになったという歴史があります。だから距離的には八王子からずいぶん離れている奥多摩あたりも、全部八王子ナンバーを付けてるのですが、不思議なのは東の境目で、日野市が八王子ナンバーなのに、昭島市は多摩ナンバーなんですよね。昭島の方が田舎だと思うんですが・・・。さて車種の方は、極く大ざっぱに言えば、普通の車が5ナンバー、高級車は3ナンバーという感じです。去年から分類番号は3ケタになったので、町を走ってる普通の車は500、高級車は300をつけてることになります。55とか34みたいな2ケタのものは、昨年以前に登録されたもので、時たま「多摩5」なんていう1ケタナンバーを見かけることもありますが、これは40年近く前に登録されたという証拠で、すごい事なのです。
 さあ問題です。多摩西部で普通の車を買うと、ついてくるナンバーは「八王子500」ですが、なぜうちの車は「八王子530」なのでしょう?実は、昨年から「希望ナンバー制」というのが同時に導入され、ちょっと余計にお金を払うと、自分の好きな番号を付けられるようになったのです。で、その希望ナンバーにすると、分類番号が500や300ではなくて、530とか330になるというわけです。うちの車のナンバーは5577です。最初はオール7にしようと思ってましたが、「競争率が高く、抽選になる」と言われたので、5を混ぜてみました。同じ事を考える人っているみたいで、八王子ナンバーで「5577」を希望した人は、現在うちのを含めて4台確認しています。皆さんも、町を歩きながらナンバープレートを見てみませんか。運転中はやめてよね。
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10月18日  続・シーケンサー

 機械の力を借りて演奏するのはインチキっぽいし、機械とアンサンブルしたって面白くもおかしくもない、という点から言えば、シーケンサーやリズムマシンを使った演奏は必要悪ということになります。つまり、人間が足りないから、やむを得ず使用しているわけです。しかし、演奏マシンをもっと前向きな発想で捉えることも可能です。シーケンサーという形で、いろいろなパートを1曲分丸ごと打ち込むものが登場したのは最近のことですが、リズムマシンだけの機能で、同じリズムパターンをひたすら繰り返すタイプのものはずうっと昔からあったように思います。エレクトーンにオートリズムが付いたのは、おそらく30年以上前のことでしょう。エレクトーンという楽器の存在意義は、あらゆるパートを一人の人間が演奏するということに尽きますから、リズムマシンは必要不可欠ですし、「機械と演奏したってつまらん」なんていう発想は出るはずもありません。T-スクエアの則竹さんは、アンサンブルの中に、よくループドラムというものを用います。文字通り、単調なパターンを延々と繰り返す機械のことですが、彼の解説によれば、単調なループパターンに人間がグルーブを加えていくのが面白いそうで、言い方を変えると、「機械がやっても大差ないようなものは機械に任せて、人間にしかできないことは人間がやる」ということになるでしょうか。考えてみれば、現代の生活と同じです。コンピューターは頭が良いわけではなく、人間がやっても当然できるけど、単調でめんどくさいことだけを任されているに過ぎません。
 ただ最近は、絶対に人間がやった方がいいはずの所を、経費節減のために機械を使っている録音をよく耳にします。確かにスタジオミュージシャンを雇うのと、打ち込みで済ますのとでは、経費上雲泥の差が出るのはわかりますが、そういう打ち込みだらけの曲を聴くと、どうしても使い捨ての消耗品ぽい印象を受けてしまいます。逆に、どうでもいいCMソングみたいなのの中にでも、こだわりを持って作られてるように感じるものもあります。
 現代は、あらゆる場面で機械との付き合い方を考えていかなければならない時代といえますねえ。
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10月16日  シーケンサー

 青梅東の文化祭で、6曲演奏したうちの2曲でシーケンサー伴奏を使用していたことに、気づいた人は気づいていました。4月以来、シーケンサーを使わずに合奏することの方が珍しかったせいもあり、本番のステージで用いることについてはとりたてて議論もありませんでしたが、秋留台で5年前に送別会のステージで初めて使った時には、「越えてはならぬ一線」「やむをえぬ選択」みたいな感覚があったものです。シーケンサーとは自動演奏マシンのことですが、これを使うということは、機械の助けを借りて演奏することになり、一種のズルとも言えなくありません。当然コンクールの舞台などでは禁止でしょう。今回の文化祭でも、何人かの方から「後ろでテープ流しながら演奏してたでしょ?」と尋ねられました。つまり、「なあんだ。実力による演奏じゃないじゃんか」って受け取られてしまったわけです。
 なるべくなら本番でのシーケンサー使用を避けたい理由は、もう一つあります。何しろ機械ですから、バンドの中にまったく気持の通じないメンバーが一人混じったのと同じことになるわけです。もしも誰かがずれたりした場合、人間の集団ならお互い聞きながらあわせたり、臨機応変の対応が可能ですが、シーケンサーには対話が通用しないので、すべてシーケンサーを優先に考えていくしかないのです。特にドラムとシーケンサーがずれた場合は、他の人間たちはどっちにもつけられなくなり、演奏は間違いなく空中分解します。シーケンサーに合わせて演奏するというのは、案外と正確なリズム感を要求されることなので、時にはそういった崩壊の危険を伴うのです。だから逆に、シーケンサーなしだと崩壊してしまうような場合には、サポート役として使ったほうがまだマシになるし、使うとかえって崩壊するときは、やめた方が無難ということになるでしょう。
 文化祭の2日目に面白いことが起こりました。「スパニッシュ・フィーバー」のかなり始めの方で、すでにドラムが1拍遅れになりました。私はさりげなくシーケンサーのボリュームを絞り、OFFにしてしまいました。演奏は無事終了し、やる前は「マシン無しじゃ止まっちゃうぅぅぅ」と言っていた部員も、途中で切られたことに気がついていませんでした。初めて自転車に乗る人を、後ろで押してあげる人のような役割を果たすこともあるという例です。

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10月13日  続・音楽と数学

 左脳を使って音楽をやってるのではないか、と思うような方がいらっしゃいます。T−スクエアのドラマーである則竹さんの「ドラムユニバース」というビデオを見ると、理詰めで話をされている部分が非常に多く、この人は理科系ではないかと思わずにはいられません。則竹さんは、ポリリズム(複合リズム)を開発するのがお好きなようで、このビデオの中でも、その創作過程を細かく解説しています。一例をあげると、16分音符7個分から成る単位を、むりやり4分の4に押し込めてリズムパターンを組み立てたりしているわけですが、組み立てる過程においては、「32÷7=4 余り4。つまり、2小節1単位として、最後の1拍に元に戻すためのフィルが必要・・・」のような考え方からスタートします。このように4の倍数でない単位を使って、複雑なリズムパターンを作成することは、感性だけではムリだと思われ、多分に数学的要素を含む左脳的作業です。もちろん、数学的にはいくらでも製作可能な複合リズムでも、出来上がったものが心地よい緊張を与えるリズムに進化するか、単にメチャクチャに聞こえるだけのものになるかを選別するには、やはり右脳が必要かもしれません。デイブ・ウエックルの教則ビデオにも、多くの共通点があります。これらの名ドラマーたちは、非常に分析好きです。
 理由はわかりませんが、理科系人間には音楽好きが大勢いることは事実です。特に数学を専攻する方には、古典派クラシック好きな方が非常に多いようです。モーツアルトの作品には、まるで数学者が書いたような形式美がある、なんてよく言われますが、モーツアルトはどっちの脳で曲を書いたのでしょう? こういうのを見ると、左脳と右脳って別物とは思えない気もしてきます。
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10月10日  音楽と数学

 2〜3日前のテレビで、「右脳を使わないとボケやすい」というような話をやっていたらしく、うちの郁恵さんが私のことを心配して「左手の指を動かす体操しなさい」と忠告してきました。私は「何言ってんのよ。右脳って音楽で使う方の脳だろ。オレなんか使いすぎる位使ってっから大丈夫だよ」と反論したのですが、物理が本業ということで普段左脳ばかり使ってるような印象を与えているのだなあ、と改めて実感しました。頭が良すぎるのも考え物ですな。ほ〜っほっほっほっ・・・。でも、そのやり取りの後、私はふと不安になりました。確かに私は音楽にドップリ浸って生活していますが、本当に右脳を使って音楽しているのだろうか、と・・・。例えばつい昨夜のことですが、午前3時過ぎまでピアノに向かい、編曲作業をしていました。作業内容をちょっと説明すると、D7というコードがあるときに、基本となる構成音のレファ(#)ラドだけだと物足りない場合があって、特にジャズっぽいものだとほとんど何かしらオマケの音が欲しいのです。付け足す音はミ(9th)だったりソ(11th)だったりするわけですが、何を足すかによって雰囲気がガラリと変わるのです。#11thを足したり、♭9thと#9thの両方を足したりする場合、ほとんど不協和音と紙一重のサウンドになり、私ごときのレベルでは、ピアノで実際鳴らしてみないと雰囲気がつかめません。何を足してそれらをどう配置するか、一音一音について弾きくらべながら検討し、決定してゆく作業は、たいへんそうに見えますが実はとても面白く、まるでパズルで遊んでいるような感覚です。最後は、決定した音符をシーケンサーに打ち込んで、流してみながら雰囲気の前後関係にギャップがあるところを修正します。この作業を通じて、私の右脳がどの程度使われているのか、言われてみれば確かに不安です。もしかすると、数学の問題を解くのと同じ思考回路だけが使われているという可能性も無きにしもあらず・・・。答は私がボケるかどうかで判定するしかありませんな。しかし、半年後に40の大台とはいえ、まだそういう心配をされるとは思っていなかったので、ちょっとショックでした。
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10月 4日  共に楽しむ 

 青梅東高校では、土曜日に学校がある日の授業は全部選択科目で、私は「生活の中の物理」と銘打って、好き勝手な授業をやっています。ネタの仕入れや、事前の準備などは大変ですが、始まってしまえばやたら楽しい2時間です。1年間の授業の中でも、私が最も好きな「空飛ぶシリーズ」は、秋晴れのこの時期に持ってきます。先週はブーメランを飛ばしました。ブーメランというと、手元に戻ってくる不思議さだけが強調されますが、単なる飛行物体として滞空時間や高度を競うだけでも、紙飛行機以上に楽しめます。思いっきり投げたブーメランは、校舎の屋上をはるかに超えて秋空に舞い上がってゆき、まるでUFOのような不思議な回転を見せながら、ゆーっくり降りてきます。ついつい時間の経つのを忘れて、ついでに授業だということも忘れて、生徒と一緒になって校庭でキャッキャはしゃいでしまいました。私が放課後一人で投げてたりしたら、きっと「あいつ、いい年こいて何やってんだ」って思われるので、この授業は私が童心に帰れる唯一の時間でしょう。来週はこれまた不思議な形をした、超低速紙飛行機をやりますが、今から楽しみです。
 長いこと楽器をやっていると、純粋な気持というか、童心のようなものがどんどん薄れていくような気がします。どうしてもより高度なことの方に目が行ってしまい、初心者の気持と遊離してしまいがちになります。自分だって、初めて楽器を持って鳴らしてみた日を経験していて、ぷうっと鳴った瞬間「わーい」と思い、ドレミが吹き分けられて面白くなり、進歩が止まって苦しい思いもして、さらにそこを乗り越えて、より楽しくなってきて・・・という段階を経ています。時にはそんな初心を思い出して、拙い合奏でいいから、1年生部員たちと一緒に吹いて、純粋な喜びを共有するのもいいかもしれません。
 ブーメランが戻る理由を物理学的に理解させる、という授業もやってみたいですが、週に1回くらい、ただ投げて楽しむっていう授業があっても、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
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