長編小説 「愛と誠」(職員室編)
第2話 シゲルと呼んでください
4月の頭に転入してきた教員に対して、各学校ごとに行う辞令伝達式というのは、
それほど儀礼的なものではない。
新任者が管理職に向けての、自己紹介みたいなものである。
上北台高校も例外ではなかった。
ただ、今回は校長も新任者の一人なので、副校長が進行役を務め、
自己紹介は新校長からスタートした。
「え〜、校長の戸田茂です。どうぞ皆さん、シゲルと呼んでください」
「・・・・」
誰も何も反応しなかった。
誠は、笑いをこらえると言うより、笑いそのものが出てこなかった。
オヤジギャグがウケない・・・というのはよく見る光景だが、
ここまで完全にスベると、見事というより哀れであった。
だが、戸田校長の次の言葉は、さらに誠を驚かせた。
「カタカナ3文字、シ・ゲ・ル・・・です」
何てこった、スベった事の挽回を試みてやがる・・・。
「誰かもういい加減、笑ってやれよ。何ならオレが笑ってやろうか?」
と思ったその時、誠の前に更なる予想外の光景が出現した。
他の教員たちが、メモとペンを取りだし、「シ・ゲ・ル」の3文字を書き留め始めたのである。
信じられないことに、女王こと愛までもが、シ・ゲ・ル、とメモした。
みんな何やってんだ?そんなにまでして校長をフォローしなきゃならないのか?
そのシゲル校長が続けた。
「え〜、国語科の汐留先生は、愛とお呼びして、よろしいですか?」
この野郎、調子に乗りやがって。って〜か、これ完全なセクハラ発言だろ。
女王を名乗る愛がこれをどう迎え撃つのか、固唾を飲んで見守る誠をよそに、
愛は表情一つ変えず、淡々と答えた。
「誠に勝手なお願いですが、アイアイと2回繰り返しにしていただけますか?」
校長は、「わかりました。検討させていただきます」と返した。
誠は目眩を感じた。オレは悪い夢でも見ているんだろうか?
何なんだ、今のやりとりは?これは、どう考えてもマトモでは無い。
でも、周囲は平然としていて、誰一人ヘンだと感じていないように見える。
ということは、オレ一人がヘンなのか・・・。
辞令交付式が終わり、副校長の佐川が、誠たち8人を職員室に案内した。
というより、入り口まで連れてきただけで、後はどうぞご勝手に、という感じだから、
みんな自分で席を探さなければならなかったが、
すぐに何人かの教員が、自分の部署の新人を誘導するために席を立った。
誠の方に近づいてきたのは、その中でも、ひときわガッシリした体格の男だった。
「台場さんだね。オレは生活指導主任の白川(しらかわ)だ。ヨロシクな」
誠が言葉を返そうとすると、横から一人の女が割って入った。
髪は茶髪というより殆ど金髪、全身に金属製のアクセサリーをくっつけ、
都内のキャバクラから抜け出してきたばかりのような、派手な女だった。
「あ〜ら、この人が誠ちゃん?ウワサ通りのイケメンじゃん?
ねえ、ゴウちゃん、この子パシらせたりしたら、アタイが承知しないよ!」
女はガムを噛みながらニヤニヤ笑い、キツい香水の臭いが辺りに充満した。
白川が言った。
「ははは、ビックリしたか?この人も同じ生活指導部。君のチームメートだ」
「アタシ、養護教諭のガム子。ヨロシクね」
女はそれだけ言うと、すぐにその場を離れていった。
誠は再び目眩に襲われそうなのをこらえて、白川に聞き返した。
「今、あの人の名前、ガム子って聞こえたんですけど・・・。」
「ああ、いっつもああやってガムを噛んでるから、だからガム子だ」
「はい・・・。で、彼女の本名は何とおっしゃるんですか?」
「あ〜・・・わからんな。ガム子の本名なんて、考えたこともない」
白川のこの一言で、ついに誠の中で、何かが切れるのを感じた。
「あの、ふざけないでください!僕は今日来たばかりなんです。
早く皆さんの名前を正しく覚えて、ここの一員になりたいんですよ。
なのに、今朝からみんなで変な名前で呼び合って、何やってんですか!」
「お前、何怒ってんだ?」
白川はキョトンとしているようだった。
誠は、愛を探した。
愛の言動も、これまでの誠の人生経験に照らせば、理解を超えた世界ではあったが、
それでも白川やガム子みたいなイカレた連中と話すより、何倍もマシに思えた。
愛は、生活指導部とはだいぶ離れた席で、一人淡々と荷物整理をしていた。
「愛さん、教えてくれ!この学校はおかしくないか?それとも
これが普通で、オレの前任校だけが異常にまともだったのか?」
「誠くん、あなた、もしかして自分の異動先について何も調べなかったの?」
愛にそう言われて、誠は少し考えてから答えた。
「最近できた単位制の学校で、進学重点校を目指してるっていうのを
承知の上で来たけど・・・、他に何かあるのか?」
「教員の愛称表記試行校ってことは?」
「アイ・ショウ・ヒョウキ・シコウ・コウ・・・???」
「知らなかったの?呆れたもんだわ。」
誠は、本当に異次元空間に迷い込んでしまったかもしれないと思った。
愛は続けた。
「プロ野球のイチロー選手の本名は、鈴木一郎だって、知ってるわよね。
これにヒントを得た東京都教育委員会は、イチロー人気にあやかって、
都立高校の先生たちにも愛称表記を導入して、都立離れに歯止めをかけようとしたの。
今から5年くらい前のことだわ。上北台は唯一、その試行校になったの。」
「つまり、この学校では、先生どうしあだ名で呼び合おうってことなのか?まさか・・・」
「本当に知らなかったのね。いいわ、これを見て」
愛が取って差し出した1枚の紙切れは、どこの学校でもよく見かける、
職員室の座席表だった。誠は端からゆっくりと見ていった。
すると、普通の名前が並ぶ中に、明らかにニックネームっぽい文字列があった。
「パンチ」とか「JOE」という名前の先生がいる。そして「ガム子」も見つけた。
「どう?これでわかったでしょ?出席簿や通知表はもちろん、
公文書にもすべて愛称の方を使うから、本名を使う場面が無いの。
校長自身も、先頭に立って愛称表記を推進するって、はりきってる」
「だから、シゲルと呼んでください、なのか・・・」
誠はようやく少しだけ飲み込めてきた。
誠は生活指導部のエリアに戻ると、白川に丁寧に謝った。
「で、台場先生は、誠って名乗るのか?何かありきたりだな。
マコッちゃんなんてどうだ?は〜っはっはっは」
白川は何も気にしていない様子だったが、誠は憂鬱だった。
「誠」も「マコッちゃん」も大差ない。どっちもまっぴら御免だ。
そういえば、愛は校長とのやりとりの中で、愛称を「アイアイ」にすると言ったが、
あれは本気なのだろうか?さっき聞いておけばよかったと思った。
誠が前任校を離れるとき、先輩から「とにかく郷に入れば郷に従え」と、きつく言われた。
今、それがどれほど難しいことかを思い知った。
しかし、これほどパニクっている自分がいるというのに、
同じ転入者という立場の愛は、悠然と構えている。
誠は、愛の本当の実力を見るまでもなく、
すでに愛の前にひれ伏したい気持ちになっていた。
まだ、愛と出会って数時間しか経過していない。
愛のことを何一つ知らないと言ってよかったが、それでも誠は確信した。
「オレはどこまでも愛についていく!」
しかし、この上北台高校で、そんな愛と誠の行く手に立ちふさがる者が現れようとは、
この時は、誰も知る由が無かった。
(続く)